なぜ私が「豊かな老後」について真剣に考えるようになったのか
こんにちは、ロックです。
今回は、私がなぜ「豊かな老後」について深く考えるようになったのか、その背景を具体的なエピソードを交えてお話ししたいと思います。
人は誰でも老いる。だから他人事ではない
老いは誰にも訪れるものです。
自分にはまだ先のことと思っていても、必ずその時は来ます。
だからこそ「老後の生活」や「最期の過ごし方」は、決して他人事ではないと私は考えるようになりました。
きっかけは、地域包括支援センターでの2件の相談
現在、私は地域包括支援センターで働いており、高齢者に関する様々な相談を受けています。
そんな中、立て続けに似たような2件の相談を受けたことで、私の金銭感覚や老後に対する価値観は大きく変わりました。
相談者に共通していたこと
- どちらも生活保護を受けており、借家で一人暮らし
- 親族は遠方に住んでおり、日常的な交流はなし
- 突然、脳の病気で倒れ、その後に癌も判明
- 余命半年と告げられる
- 住み慣れた借家には戻れず、施設への入所が決まる
本当は「家に帰りたい」気持ちがあった
どちらの相談者も、「本当は住み慣れた家に帰りたい」という気持ちを持っていました。
ですが、現実的には一人暮らしを続けるのは困難で、親族の意向もあり施設入所となりました。
AさんとBさん、それぞれの最期
Aさんのケース
- タイミングよく新しくオープンした民間施設に入所
- 生活保護受給者向けの部屋があり、そこに入居
- 個室でプライベートが守られ、清潔で快適な環境
- 最期まで満足した生活を送ることができた
Bさんのケース
- なかなか入所できる施設が見つからなかった
- 最終的に大部屋のある施設に入所
- 個室を望んでいたが、叶わず
- 最期まで「もっと自由に過ごしたかった」という思いを抱いていた
同じ生活保護でも、人生の最後に差が出る
どちらも生活保護を受けているという共通点がありながらも、人生の最後に大きな差が出てしまいました。
これは本当に「施設ガチャ」に当たったかどうかの違いなのかもしれません。
でも、やっぱり考えさせられます。
生活保護は必要な制度、でも「自由」は保証されない
誤解のないように言っておきたいのは、生活保護制度自体は素晴らしいセーフティネットだということです。
ただ、**「健康で文化的な最低限度の生活」**が保障される制度であり、そこに「選択の自由」や「快適さ」が含まれるとは限りません。
お金があることで、人生の選択肢は広がる
この2つのケースを目の当たりにした時、私は強く感じました。
「お金がすべてじゃないけど、お金がないと選択の自由すら得られない。」
鬼滅の刃の冨岡義勇さんの名台詞、
「生殺与奪の権を他人に握らせるな」
まさにこれが今の現実を表していると思いました。
介護が必要になっても「住みたい場所で暮らす」にはお金が必要
人はいつか必ず老います。そして、誰かの手を借りなければ生活できなくなる日が来ます。
その時に、自分が安心して暮らせる環境を選ぶには、お金が必要です。
逆に、お金がなければ「選択肢」がありません。
自分自身のためだけではありません。
もし親の介護に関わる場面が訪れた時、**「本人が希望する施設に入れてあげたい」**と思ったとしても、それを叶えるためにはやはりお金が必要です。
私が「お金を増やしたい」と考えるようになった理由
こうした経験から、私は改めてお金の大切さを実感しました。
そして、「どうすれば自分が安心して暮らしていけるだけのお金を準備できるのか?」
そう考えるようになり、現在の投資スタイルにたどり着いていくのです。
次回予告:投資に目覚めたきっかけとは?
今回は少し長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回のブログでは、私が投資に目覚めるまでの流れについて書いていこうと思います。
どうぞお楽しみに!
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